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企業内公正採用選考人権啓発推進員の声

6月18日立川で、東京都や三鷹ハローワークなどの主催する研修会の講師をやった。雇用主もいらっしゃったが、多くは企業内公正採用選考人権啓発推進員という肩書きを持つ人びと。たいがい人事担当車である。そのときのアンケート結果をいただいた。ご批判もあるし、おほめの声もある。やはり、用意したレジュメを時間不足で「とばした」ことへの言及が多い。「次回は、レジュメの終わりからはじめてはどうか…」という、きつい建設的ご意見も。というわけで、講演の尻拭いとして、解説をつづけます。


企業の社会的責任と人権(14)
■人権の再確認と人権文化
13 「人間として正しいこと」の歴史背景
?古代~中世~近世の価値観…非一神教の宗教観
 中東のある国に入国するとき、審査カードの宗教欄に「無宗教」と書いた日本人が入国を拒否された、というニュースを聞いたことがある。理由は、「宗教を持たないものは人間ではない」とイスラム教の教えに基づいていわれた、と記憶している。日本人の多くは、自分は「無宗教」と思っているかもしれない。はたしてそうだろうか。
 私がこどものころ、お正月飾りは、神棚や床の間の重ね餅のお飾りだけではなかった。仏壇にも飾った記憶がある。さらに、簡単なわら細工の「輪さげ」という、半紙を切った「紙垂(かみしで)」、しだの葉「ウラジロ」、「ユズリハ」の葉を結んだ簡易な注連飾り(しめかざり)をいくつもつくった。飾る場所は、井戸、水道の蛇口、かまど、トイレ…。日常生活に欠くことができないものに、一年間の感謝と新年からまたお世話になりますという気持ちを込めて、暮れの30日に飾ったのだろうか。そうしたいろいろな場所には、それぞれ「神様」がいらっしゃるからと聞いたような気もする。いずれにしても、「仏教の教え」とか「神道」とはちがう、古代からの営みのように思える。
 日本の宗教の歴史を、批判をおそれずあえて乱暴に整理していえば、仏教伝来から明治維新までの間は、日本固有の神道と仏教、儒教などが相互に影響し、混然一体となった宗教観を人びとに与えてきた、といえるのではないか。そうした中で、人間として正しいこと、人の道は、さまざまな場面で判断されてきたと思う。「そんなことをしたら、お天道様がみているよ…」という言葉もそのひとつだろう。
 こうしたことから今日、誕生祝と成長の祝いは、「神社にお宮参り」。結婚式は、「キリスト教の教会」。葬儀と法要は、「お寺で仏式」。一般的な日本人の一生といっていい。お寺が経営する幼稚園で「クリスマス会」にもほとんどの人は違和感がないだろう。だが、無宗教ということではない。人生の喜びを祝い、人の死を悼むことにかわりはない。ひとつの教えだけに帰依する「一神教の価値観」とは、異なる「宗教的価値観」をもっているにすぎないのだ。
 一神教の価値観からいえば、人間として正しいことは、その一神教の教えに従うことに他ならない。ただ、原理主義になると、その行動は、他の教えと対立し、深刻な事態を生じることを国際社会の現実が教えてくれている。米国の大統領は、キリスト教の聖書に手をおいて宣誓するが、今日他の宗教を排除することにはつながらない。
 西欧生まれの人権。その歴史背景には、キリスト教すなわち一神教の影響があるだろう。けれども、非一神教の宗教観をもつ人びとが多い日本で、日常生活の場面、企業活動の中で、わたしたちは「人間として正しいこと」「人の道を」見極めることはできるはずだ。さらに、一神教の対立が懸念される国際社会で、わたしたちの宗教的な寛容性は、むしろ歓迎されるのではないだろうか。
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