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ハローワーク人権研修・立川市民会館

 19日、立川市民会館で八王子、立川、青梅、三鷹、町田、府中ハローワークの人権研修会で講演した。企業の社会的責任と人権…いつものテーマ。東村山の国立ハンセン病療養所多磨全生園(ぜんしょうえん)も管内にあると聞いて、ハンセン病問題に力が入った。「社会からの隔離の実態…採用選考時の不適切な質問事例に『ハンセン病の家族がいるか』と例示されることさえないほど…強烈な社会的差別といえる」と言ったとき、会場の皆さんの空気が、一瞬ピーンと反応した。


 企業の社会的責任と人権(12)
■人権の再確認と人権文化
11 ハンセン病元患者・平沢保治さんのこと?
 日本が国家として隔離政策をはじめたのは、1907年の法律第一一号「癩予防ニ関スル件」制定からである。患者を発見したときの医師の届出、消毒処置、療養所の設立、などが定められた。後の法改正で、療養所の所長には「懲戒検束規定」により、逃走、職員に対する反抗など患者に対する罰則を課する権限が与えられる。外部からの手紙の開封検閲。患者相互による看護・介護。養豚・養鶏などをはじめとする自給自足。1931年、後継の「癩予防法」制定。平沢氏は「療養所といっても刑務所に準じた形の運営」と表現している。  
 一方、療養所内での患者同士の結婚は許された。形は同居ではなく、夜だけ女性の寮に泊まりにいく「通い婚」。ただし、子どもを産むことは許されず、男性は断種を強制された。妊娠した女性は中絶を余儀なくされる。法律の根拠はない。後の1947年、「優生保護法」にハンセン病が優生手術の該当項目に加わる。本人、配偶者の同意が前提の定めはある。が、1950年に所内結婚した平沢氏は「断種は強制ではなかったというけれども、断種しなければ夫婦一緒に暮らすことも許されなかったし、結局は強制と同じだったんです」(同書)と述べている。この条項は1996年まで続いた。
 特効薬の普及により国際社会では、隔離政策から開放医療政策へ転換が進む。日本でも1951年、いわゆる「らい予防法闘争」で、法律改正が国会で議論される。ところが成立した法律は、ハンセン病の権威といわれた光田健輔医師らの時代に逆行する国会証言などにより、絶対隔離、強制収用を基本とする戦前の法律を踏襲するものとなる。「治療薬の効果が確認され、世界的にも開放政策へ転換する中、日本ではなおもハンセン病は治らない、恐ろしい病気だとされてしまったのです。医学会にとっても屈辱的な『改正』だったといえるでしょう」と平沢氏は総括している。
 誤った政策だけでなくもうひとつ、ハンセン病の元患者・回復者に著しい人権侵害をもたらした要因がある。それは、社会、世間の偏見と差別の連鎖だ。「らい予防法」の廃止を訴える入園者の運動も入園者自身の消極的態度の克服が必要だった。法律が廃止されても、「私は家にも帰れない」「肉親とも繋がりがない」「廃止後の生活保障はどうなるのか」…。社会に復帰するという希望をもつこと自体、困難というのが実情だ、という考え方である。
 平沢氏は、多くの入園者が「実名以外の名前」を名乗る中「実名」をつかっている。6年ほど前「茨城の家には帰らないのですか」という私の問いに、「地元には帰りたい。墓参りもしたい。けれども、今日では、私の存在そのものを知らない親戚もたくさんいる。その中には、結婚話の最中の若者もいるかもしれない。私が突然帰って、破談になったら…と思うと、まだまだ帰る勇気がない」と語った。茨城に講演に行くときには「三芳晃」というペンネームを使っていたという。
 結婚差別、就職差別、交際忌避…、わたしたちひとり一人の心に潜む、予断、偏見、誤った知識、迷信…、そして世間体、自分だけが反対してもどうしようもないという消極的態度、こうしたものどもが元患者の社会復帰を阻む「社会的差別」を形成している。解決する方法は、わたしたちひとり一人、社会の一員としての企業…、ハンセン病に関する正しい知識と差別の歴史を学ぶことに他ならない。
 昨年の暮れ、テレビニュースで平沢氏が母校の小学校に帰り、子どもたちに講演する姿が放映された。法律の廃止は、ハンセン病の正しい知識の普及・啓発活動にも大きな前進をもたらしたのだろう。映像を見る私自身もうれしかった。さまざまな社会的差別が存在する。正しい知識の普及と差別の歴史の学習、問題解決の王道を改めて認識した。学習の場として、全生園には「国立ハンセン病資料館」が設置された。わたしたちには希望がある。
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